企業が本業を使って被災地を支援するというニュースを、いくつか見かけた。義援金のように誰でも出せるお金の支援ではなく、その会社にしか出せないものを使った支援だった。読んでいるうちに、金額の大小よりも気になることが増えていった。
任天堂の支援で、目が止まったのは中身のほうだった
任天堂が、地震で壊れたNintendo Switchなどを無償で修理すると発表した。受付期間は2026年7月28日から2027年2月1日到着分まで。あわせて義援金5000万円も送るという。
最初に目が止まったのは、金額の大きさよりも支援の中身のほうだった。大切なゲーム機が壊れてがっかりしている人は、きっとたくさんいる。その困りごとに、まっすぐ届いている支援だと感じた。
同じ「本業で支援」でも、濃さがぜんぜん違う
本業を使った支援は、任天堂だけではなかった。エディオンは技術工料を半額にし(出張費・部品代は通常料金)、点検車をイオン八代店に派遣した。長府製作所は、初回点検の出張料と点検料のみを無償にしている(部品交換や修理そのものは有償)。同じ「無償修理」「本業支援」という言葉でも、会社によって中身の濃さはかなり違う。
ここでどちらが正しいという話をしたいわけではない。まず、違いがあるという事実だけを置いておきたい。
手厚さの線は「負担ゼロかどうか」だと思う
ここから先は、どこかの会社の対応を採点する話ではなく、支援というものの構造について考えたことだ。支援の手厚さを分ける線がどこにあるか考えたとき、行き着いたのは「本人の負担がゼロになるかどうか」だった。
出張料だけ無料、技術工料だけ半額、というのも十分にありがたい話だと思う。でも、被災した本人にとって「結局いくら払うのか」がゼロになるかどうかで、その支援の意味は変わってくる気がする。
半額は、たぶん使われないことが多い
半額の支援を、ありがたいと感じる気持ちと、実際にそれを使うかどうかは、たぶん別の話だ。
被災して生活を立て直している最中は、お金は生活に必要なところから出ていく。半額でも自己負担が残るなら、ゲーム機の修理のような娯楽は、どうしても後回しになる。安くなっていることは知っていても、家計が厳しい状態では、結局利用しない人のほうが多いのではないかと思う。
もちろん、半額なら使うという人もいるはずだし、言い切れるほどのことではない。それでも「半額」というのは、支援した側が示せる数字であって、受け取る側にとっての選択肢になるとは限らない。負担がゼロにならない支援は、使われないまま終わってしまうことが多いのではないかと思う。
宣伝でいいと思う
本業を使った支援について、「結局は宣伝では」という見方もあるかもしれない。でも、それでいいと思っている。
会社のお金と技術を使って、たくさんの人を助けているのだから、その会社がちゃんとメリットを受け取ってもいいはずだ。支援を、善意だけの話にする必要はない。宣伝になってでも支援が届くなら、そのほうがいい。
修理は、捨てさせない支援だ
物資を送る支援が「足りないものを足す」支援だとしたら、修理という支援は方向が逆だと思う。壊れたものを、捨てさせないための支援だ。
任天堂の受付期間は半年以上ある。これは、被災直後に必要な支援ではなく、生活が落ち着いてから使う支援として設計されているからだと思う。義援金は直後に必要で、修理は少し後になってから必要になる。支援には、時間の幅がいる。
じゃあ、わたしが持っているものは何か
こういう支援のニュースを見ていると、自分に何ができるだろうと考える。
会社が支援を出せたのは、工場と技術を持っていたからだ。自分にはそのどちらもない。でも、金額ではなく、続けられることなら持っている気がする。募金は一回で終わるものだけど、たとえば熊本の美味しいものを取り寄せることは、続けられる。いつかゆっくり旅行に行きたいと思い続けることも、それに含まれるのかもしれない。
まとめ
個人は、企業のように高い技術力も、大きな資金も持っていないかもしれない。それでも、日常の中でしている消費は、自分のためだけでなく、誰かのためにもなっていることがある。寄付をする余裕がなくても、気負う必要はないと思う。できることを、できる範囲で、続けていけたらいいなと思う。

