ぷにぷにしたシールが流行っていて、品切れが続いていると聞いた。小学生の女の子たちがシール帳を持ち寄って交換しているのだという。
(この記事は2026年8月時点の情報をもとに書いています)
ネットの時代に、貼れるシールが流行っている
昔もシール帳が流行っていたことは知っている。でも最初に思ったのは、懐かしいということではなかった。わたし自身はやっていなかったので、懐かしむ記憶がない。
代わりに出てきたのは、驚きのほうだった。SNSがあって、いくらでも画面の中で遊べる時代なのに、こんなにアナログなものが、また流行ることがあるんだな、と思った。
わたしはやらなかった。というより、届いていなかった
ただ、わたし自身はシール帳をやったことがない。
正確に言うと、「やらなかった」のとも少し違う気がしている。周りで流行っていなかったのだ。たぶん田舎だったので、簡単に買える場所に売っていなかった。だから、そもそも知らなかった。
流行っていることを知ったときには、もう興味を示す年齢ではなくなっていた。
つまり、届いていなかった。流行が、住んでいる場所と時間差で、人を選り分けていたのだと思う。今のように、情報が全員に同時に届く時代ではなかった。
でも、残念ではない
そう書くと取り残されたみたいだけれど、特に残念だとは思っていない。
やりたかったのにできなかった、という気持ちは、当時もなかったし、今もない。
正直、楽しさが今も分からない
そして正直に言うと、シール帳の楽しさが、今もよく分からない。
貼らずに集めること。それを交換すること。周りの子が全員同じことをしていること。シールに価値の差があること。どれも腑に落ちない。
分かったふりをして書くこともできるけれど、たぶんそれは嘘になる。
分からない理由は、たぶん物との距離感だった
考えてみると、分からない理由はシールそのものではなく、物との距離感のほうにある気がする。
あの厚みのあるシール帳を、もし自分が持つとしたら。自室にしても、持ち歩くカバンにしても、限られた自分の空間をそれに割くことになる。それは、個人的にはかなり嫌だなと思った。
集める遊びというのは、増やして、持ち続ける遊びだ。ものが増えるのが苦手で、人と同じことをするのも苦手なわたしは、そもそも乗れなかったのだと思う。
取り残されたのではなくて、単に合わなかった。
ただし、嫌なのは自分の分だけ
念のために書いておくと、人がたくさんのものを集めることは、まったく気にならない。
嫌だと感じるのは、自分がそれを持つ場合だけだ。実際に子どものシール帳を見せてもらったこともあるけれど、それが嫌だとは思わなかった。ただ、これを自分が持つとしたら邪魔だな、と思っただけだった。
自分の感覚と、人の趣味は別のものだと思っている。
子どもがやりたいと言ったら
もし自分の子どもがやりたいと言ったら、と考えると、正直、あまりやってほしくない気持ちはある。
でも、好きなものを制限するのは違うとも思う。だからやりたいのなら、やったらいいと思う。ただし、ルールは決めたい。
ひとつは、自分のお小遣いの範囲でやること。これは絶対にしたい。もうひとつは、シールのために店に並びたいから連れて行ってほしいと言われても、そんなに頻繁には連れて行かないこと。
テレビのニュースで、たくさん集めている子が、これからもっと増やしたいと話しているのを見た。夢中になるのは自然なことだと思う。ただ、どこまでにするかを決めるのは、やっぱり大人の側の仕事なのだろうな、と思った。
子どもを責めたいわけではない。線を引くのは、たぶん大人の役目だと思う。
やらない、と言える子と言えない子がいる
周りで流行っていても自分はやっていない、という子の話を聞いたことがある。
それを聞いて、なるほどと思うと同時に、それは言える子だったからかもしれないとも思った。
自分の好きなことがはっきりあったり、仲のいい子同士でどちらも興味がなかったりすれば、やらないでいられる。でも、友達に誘われて断れない子もいるはずだ。おとなしい子は、やらないと言えないかもしれない。
そう考えると、わたしは選ぶ場面に立たされたことがなかった。だから断る必要もなかった。選ばずに済んだ、という形の楽さがあったのだと思う。
しかも、シール帳には交換という仕組みがある。交換が入ると、個人の好き嫌いの話が、誰と誰が何を持っているかという力関係の話に変わってしまう。そうなると、やらないでいることは、もっと難しくなる。
まとめ
こうして書いてみると、自分はずっと外側にいたのだなと思う。
流行っていたことを知らずに通り過ぎて、知ったときには年齢を過ぎていて、今も楽しさが分からない。それでも残念だとは思っていないし、集めている人を不思議だとも思わない。ただ、自分の話ではなかった、というだけだ。
そして、そのことを「やらない選択をした」と呼ぶのは、たぶん少し違う。わたしは選んでいない。選ぶ場面に立たされなかっただけだ。
流行っているものをやらない自由は、全員に同じだけあるわけではない。断れる子と、断れない子がいる。選ばずに済む場所にいた人と、毎日その場で選ばされている子がいる。
わたしはたまたま、選ばなくていい側にいた。それは運が良かったというより、単にそういう場所にいたというだけのことだと思う。だから、今まさに選ばされている子たちのことを、外側から気楽に評価するのはやめておきたい。
自分に分からないものが、誰かにとっては大事なものだったりする。それくらいの距離感で、眺めていられたらいいなと思っている。

